犀のように歩め

自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ。鶴見俊輔さんに教えられた言葉です。

絵に描いた餅


「絵に描いた餅」という言葉は、仕事の世界でもよく使われます。実現可能性が低かったり、具体性に乏しい計画や理念などを指すものです。しかし私は、この言葉が相手の批判に使われるばかりで、思考停止を招きやすいことに、いつも違和感を覚えています。

たとえば「絵に描いた餅」をあえて掲げようとする人には、その人を突き動かす何ものかがあるはずです。その「何ものか」を活かすべく、具体性や実現可能性を少しずつ形にしていくこと、そこにこそ、事態を改善する出発点があるのではないでしょうか。

このように考えるのには理由があって、心理学者・河合隼雄さんが、まさにこの言葉をめぐる患者のエピソードを紹介しているのです。


理想の伴侶を追い求めて結婚に至った男性が、やがて相手に幻滅し破局を迎えたという話です。彼は振り返ってこう言いました。三年間の交際期間、私は「優しくて賢い女性」という「絵に描いた餅」を、彼女に投影して見ていただけだった、と。彼は自分の不運を嘆き、相手の女性を恨むようになります。

しかし河合さんは、著書『こころの処方箋』のなかで、こう語ります。

しかしここでもう一歩踏み込めないだろうか。三年間も彼女に騙されていたなどと考えるのではなく、自分の心の中で活動し続けた「優しい賢い女性」という絵姿は、自分にとって何を意味するのだろうか、と考えてみる必要があるのではなかろうか。彼女は偽物だったかもしれないし、何だったか不明にしても、自分の心のなかにひとつの絵姿が存在し、優しさとか賢さとかの属性をもって活動していたことは「事実」なのである。そしてその絵姿こそが自分を色々な行為に駆り立てた原動力なのである。

私たちは、自分の理想を「絵に描いた餅」にすぎないと、冷めた眼で見ることができます。
しかし同時に、その「絵に描いた餅」が自分にとってどれほど切実なものであるかを感じることもできる。心のなかの絵姿がどれほど自分を動かしているのかという自覚は、それが「描かれたものにすぎない」という認識と矛盾しない──河合さんは、そう述べています。

道元禅師の『正法眼蔵』にも「画餅(がびょう)」という巻があります。おそらく河合さんは、この思想を踏まえているのでしょう。

禅師は「画餅」をニセモノとして退け、本物の餅だけを求める態度を否定します。本物とニセモノを分け隔て、真実だけを追い求めようとするところに「苦」が生まれると説くのです。

そして、区別を超えたそのうえで、それでもなお「画餅」を良きものとして選び取る決意。そのあり方こそが、人の生を支える道である、と禅師は語ります。

「絵に描いた餅」を笑わずに描きつづけること。そこから、私たちの現実は動きはじめるのだと思います。