犀のように歩め

自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ。鶴見俊輔さんに教えられた言葉です。

友禅菊の小半時


友禅菊は不思議な花です。風雅な名を持ち、楚々として群れて咲く様子などは、わが国古来の花のように見えます。しかし、花の真中の明るい黄色と、それを取り囲む花びらの鮮やかな紫の対比は、洋花のような雰囲気を醸し出しています。調べてみると、この花は明治時代に渡来した外来種で、花の色彩が「友禅染」を思わせることから、この名がついたのだそうです。

この花の佇まいを、人の思いに重ねた歌があります。

 彼方此方(あちこち)に思いめぐらす小半時
 友禅菊に蜂が寄りくる 
 (鳥海昭子『誕生日の歌と短歌365日)

「小半時」は十五分から三十分の、ちょうど物思いに耽るほどの時間を言います。この「小半時(こはんとき)」という古風で静かな響きの言葉と、友禅菊の不思議な佇まいが、読む者の時間をいつもとは違うものにします。

たとえば、風に運ばれてくる幼稚園の運動会の音楽を聴いて、遠い昔に感じた一瞬の違和感を思い出す。神社の巨木を見上げて、子育ての期間が千年の時間に通じるように感じる。そのいずれもが「小半時」の出来事です。その小半時の間に、「一瞬」と「千年」が折りたたまれて時を刻んでいます。

娘たちの成長を思い返し、「彼方此方」に思いを巡らせていたときだったので、この歌を読んで、そんなことを思いました。

群れて咲く友禅菊の花のひとつひとつが、浮かんでは消える「思い」のようです。その花に引き寄せられる蜂に気づくとき、ふと我に帰るのでしょうか。
我に帰ってもなお、浮かんだ思いがとらえて離さない、そんな小半時があります。

いつもとは違う時間


楠田神社のイチョウの木を見に行きました。
数日前、博多の秋の風物詩「ぎなん落とし」がニュースで報じられていて、久しぶりに、あの巨木に会いに行きたくなったのです。

「ぎなん落とし」は、樹齢三百年ともいわれる一本のイチョウの木に、雄株と雌株の両方があり、そこに実ったギンナンを神職が竹で突き落とし、巫女たちが丁寧に拾い集めて神前に捧げる神事です。今年はギンナンが豊作だったといいます。

今日、しばし見上げていたのは、同じ境内にある、樹齢千年以上といわれる御神木です。青空を背にそびえ立つ姿を見上げながら、この巨樹は千年ものあいだ、ここにじっと立ち続けてきたのだと思いました。

じっとしている。それでも、この木は成長を続けている。
見上げていると思わずため息が出るのは、成長の速度があまりにもゆっくりだからでしょうか。
巨樹を見上げながら、こんなことを考えました。

私たちはそれぞれの社会的な役割を担い、その持ち場で力を発揮しようと努めています。そうした営みを、自己実現と呼んだり、成長と呼んだりします。しかし、ほんの数年前、そうした日々の営みが突然止まり、ただじっとしているしかないような時間がありました。コロナ禍のことです。あのとき、私たちは成長を止めていたのでしょうか。

もう少し時間をさかのぼり、自分自身のことを振り返ってみます。

娘たちが生まれ、その成長に濃密に関わっていたころ、私はいわゆる自己実現というものに急かされている感覚が希薄でした。自分自身が何かを成し遂げることよりも、目の前の子どもたちと過ごす時間のほうが大切だったのでしょう。そして今思えば、あのころの私は、自分を超える大きなものに触れていたような気がします。

自分ではないもの、自分の思いどおりにはならないものと向き合うとき、人はじっとしているのかもしれません。普通の成長という尺度からいったん降りていた時間。振り返ってみると、私はそのとき、いつもとは違う時間を生きていました。

千年の時を生き、今なお成長を続けるイチョウの巨木を見上げながら、木が過ごしてきた時間に思いを馳せました。

遠い運動会


近くの幼稚園から、運動会の音楽が聞こえてきます。最近の運動会は春に開かれることが多くなったようですが、ここでは昔ながらの秋の風物詩が、今も続いています。

うるさくも感じなかったので、しばらく音楽に耳を傾けていました。
それにしても、陽気な音楽だと思います。空の青にも、街路樹の緑にも、まったく調和せず、ひたすらこの世の中の喜びだけが繰り返されます。人生は、こんなにも明るかったろうか、と少し不安になるくらいです。

今はもうなくなったようですが、娘たちの幼稚園の頃は、運動会には場所取りがありました。朝早く、いや夜明けごろから、親たちが現地に乗り込んで、自分たちの場所を確保するのです。
われわれ夫婦は、そこまで熱心ではありませんでした。昼休みになると解放される場所で一緒に弁当を食べ、それ以外は写真を撮る場所を探して、会場をウロウロしていました。

あの頃の子どもたちの行事を思い返すと、楽しかったというより、何か場違いなところにいるような、戸惑いに似た気持ちがよみがえってきます。
大勢の人の熱気、大音量の音楽やアナウンス、ビデオカメラを構える人たち。そういうものに囲まれているうちに、自分の心だけが、どこかに置いていかれたような気がしていたのでしょう。記憶の中の運動会には、そんな現実感のなさが残っています。

風に運ばれてくる音楽は、どこまでも陽気です。
その音楽が陽気で、はずんでいればいるほど、遠い昔の、ふわふわした戸惑いの感覚がよみがえってくるのです。

天竺牡丹


公園の新しくなった花壇に、いろいろな種類のダリアが咲いています。幅広の花弁が幾重にも重なるもの、花全体がボールのように丸くなるもの、細い花弁が放射状に広がるものなど、形もさまざまです。しかも、同じ種類の花でも、オレンジ、黄色、薄桃色と、それぞれに個性を見せています。

楚々とした風情の花の多い秋の花壇で、ダリアはひときわ明るい。背の高い花々が萎れていくなかでも、ダリアのおかげで花壇はまだにぎやかです。

 ほこらかに秋の陽に映え咲きいたりいろとりどりのダリアの畑
 (鳥海昭子『誕生日の花と短歌365日』)

この花の誇らしさは、芙蓉やモミジアオイのような、堂々とした花の姿とは少し違います。遠目には、ひと目でダリアとわかるまっすぐな華やかさがあり、近くに寄って花を覗き込めば、花弁の重なりに微妙な色の濃淡が見えてきます。その二つの華やかさが、一つの花のなかに同居しているのです。

茶花に使われることはまずありませんが、こうして色とりどりの花が咲きそろう景色を眺めていると、薄茶席の団欒の楽しさを思います。ひとりひとりがそれぞれの持ち味を見せながら、席全体が明るくなっていく。せめて今日見たダリアの話くらいは、茶席の話題に混ぜてあげたいと思います。

そう考えているうちに、ダリアが「天竺牡丹」とも呼ばれることを思い出しました。その名の響きを借りて、玄関などにさりげなく花を添えれば、茶席にダリアの雰囲気を運ぶことができるかもしれません。

ダリアは初夏から咲き始め、夏の暑さを越えて、この時期にいちばん美しい彩りを見せるといいます。長い季節を咲きついで、秋の花壇を明るくしているのです。

そんなダリアを眺めていると、茶席を盛り立て、皆の気持ちをひとつにしていく、熟練した社中の姿が浮かんできます。目立とうとするのではなく、それぞれが持ち味を発揮することで、席全体が明るくなる。
明るさもまた、大切な気遣いなのです。

もっと遠くへ


お茶の稽古が終わって空を見上げると、抜けるような青空が広がっていました。「天高く馬肥ゆる秋」といいますが、空の高さを思わせる雲の影さえない、鮮やかな青です。

こんな空を詠った歌があったはずだと思い、この歌に思い至りました。

 すいえんのあまつをとめがころもでのひまにもすめる秋のそらかな
 (会津八一『南京新唱』)

薬師寺東塔の最上部にある「水煙(すいえん)」には、美しく天を舞う天女たちが透かし彫りされている。そのひるがえる衣の袖の、わずかな隙間からさえ、澄み渡った秋空が覗いています。

広大な空を、水煙の小さな隙間に見ているのです。衣の袖が浮かび、その向こうにはどこまでも空が続いています。「すいえんのあまつおとめがころもでの」と、流れるような音に導かれて、視線もまた、高く遠くへ運ばれてゆきます。

そうして空を眺めていると、もう一首の歌が浮かんできました。

 秋づきし空なつかしみあふぎをれば今日のわが心新しき如し
 (窪田空穂『鏡葉』)

懐かしさと新しさとが、秋の空を通じてひとつになっています。澄み切った秋空はその時々に深い感慨を与えてくれます。そこに重なる思い出を辿っていくと、ふたたびめぐり来る秋を、新たな自分が迎えていることに気づくのです。

日ごろ秋草を眺めていると、季節が静かに閉じてゆく気配を感じます。花の盛りを過ぎ、色を深めながら、自然は少しずつ内へ向かってゆきます。
それだけに、今日の空を見上げたとき、思いがふっと外へ開いてゆくのが新鮮でした。
秋の空に惹かれるように、もっと遠くへと思います。

ミズヒキ


稽古場の宗全籠に秋の花々が咲いています。ススキ、オミナエシなどの秋草と一緒に、ミズヒキがふんわりと投げ入れられていました。

ミズヒキは、細くしなやかな茎がすっと伸び、その線はかすかな風にも揺れるほど華奢です。長い茎に点々と並んで咲く小さな花は、上から見ると鮮やかな紅に、下から見ると純白に映ります。この紅白の組み合わせが水引を連想させるのが、花の名の由来だといいます。

そんな巧みな趣向を持ちながら、強く自己主張することもありません。節々に小さなアクセントが置かれたようなこの花が入るだけで、床の間に涼しい風が吹くようです。

秋ふけし日のにほいだつ草なかに金線草(みずひきぐさ)もうらさびにけり
(斎藤茂吉『草の葉』)

地味な花だけに、秋草の集まりのなかでは、どうしても脇役の立場になります。しかし、この歌ではミズヒキに焦点が当てられています。秋の草むらにひっそりと立つ姿に、心を寄せた歌なのでしょう。脇役には脇役の時間があります。

今年の初釜で亭主役を務めた妻は、来年は水屋の裏方にまわります。今年は病気から快復したばかりでの亭主役でしたが、よく大役を果たしたと思いました。来年はまた、別のところで神経を使うことになります。

茶席では、客にも亭主にもなれば、裏方にまわることもあります。どの役を受け持つにしても、その役に成り切ることが「主人公」なのだと、禅語の解説で学んだことがあります。
客に応じる亭主、亭主に応じる客、そして亭主と客の間合いに応じる水屋。その相互の呼応があってこそ、一つの茶席が成り立つのです。表にいる者だけが主役なのではありません。

そう思いながら、ミズヒキの楚々とした佇まいを眺めます。
目立たないから脇役なのではない、この花も精一杯、「主人公」を演じているのだと思います。

シモツケの花


公園の生垣にシモツケの花が咲いています。枝先に薄紅色の小さな花が、ふんわりとドーム状に集まっています。

夏の初めに咲き始め、八月の猛暑のころには、いったん勢いが衰えていました。それが先月の終わりごろから、また花の勢いが増してきたように感じます。このまま咲き続ければ、葉の紅葉と咲き残った小花を、同時に楽しめるかもしれません。

 老夫婦しずかに住める垣にそいシモツケの花ことしも咲けり
 (鳥海昭子『誕生日の花と短歌365日』)

妻と公園を歩くときには、桔梗や女郎花のように季節を鮮やかに彩る花よりも、こうしたシモツケの花が傍らにあるほうが、話がはずみます。小さなブーケのような花を眺めていると、過ぎた夏のことが、ぽつりぽつりと思い出されるからかもしれません。

この花が咲き始めたころ、脇の花壇のひまわりは、まだ小さな苗でした。「ええと、この花の名は」と、妻に尋ねたことも思い出します。ひまわりが盛りになると、今度は「まるで隣に栄養を吸い取られたみたいだ」などと話していました。

そうやってシモツケの花を眺めていると、思い出というものも、この花に似ていると思います。

ひとつひとつの出来事を順番に思い出すのではありません。小さな記憶がいくつも寄り集まって、ひと塊りの花のように、ふっと目の前に現れるのです。よく見れば、そのひとつひとつには、少しずつ違う色や表情があります。

妻とシモツケを眺めていると、同じ花を見ながら、それぞれの記憶を拾い上げているのでしょう。私が忘れていたことを妻が思い出し、妻が忘れていたことを私が思い出す。そうして話しているうちに、ひとつの夏の景色が、ふたりの間にゆっくりと浮かび上がってきます。

思い出を分かち合うというのは、ひとつの花を、ふたつの心に咲かせることなのかもしれません。
爽やかな秋風の吹く散歩道に、シモツケの垣根が続いています。