犀のように歩め

自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ。鶴見俊輔さんに教えられた言葉です。

未知の引き出しを開ける


師走も近づいてくると、一年を締めくくる言葉が、床の間を飾るようになります。
稽古場に「百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に一歩を進む)」が掛けられていました。私はこの言葉を、一年を振り返り、さらに来年の飛躍を願う言葉として捉えています。
前人未踏の最前線に立っても、なおその先を目指すという励ましであるとともに、自ら作り上げた垣根を破れという戒めでもあります。

玄侑宗久さんは、この言葉を次のように説明していました。

人間の可能性は尽きることがなく、まるで無限の「引き出し」をもつタンスのようなものだ。引き出しは無限にあるにもかかわらず、習慣によって開ける場所が決まってしまう。だからこそ、背伸びをして高い位置にあるもの、あるいは遠くのものにも手を伸ばして開けてみる。それこそが、修行としての日常なのだと。

そもそも私たちは、自分が無限の引き出しを持っているという認識すら持っていません。いつも開けているお決まりの引き出しこそが自分のすべてだと思い込み、それ以外の可能性に気づかないのです。だからこそ、背伸びをして高いところに目を向けたり、遠くに手を伸ばしたりすることで、初めて未知の引き出しの存在に気がつくのではないでしょうか。

背伸びをして高いところに手を伸ばすというと、
闇の中、後ろ手で枕を探す
という碧巌録の禅問答を思い出します。
千手観音の手がなぜあれほど多いのかという問いへの答えとされる話です。
観音の慈悲とは、救うべき相手やその苦悩をあらかじめ熟知し、超人的な力で次々と片付けていくようなものではありません。

闇の中で枕を探すように、当てのないままに伸ばされた手が、引き寄せられるように「陰り」に導かれ、失敗を重ねつつも、ついにはその「陰り」を癒すところにたどり着く、その姿こそ慈悲なのだと。

高いところへ手を伸ばす、その一歩を踏み出すのは、冒険心ではなく、こうした「やむにやまれぬ思い」に突き動かされるからではないでしょうか。人を想うことが、いつのまにか自らの垣根を取り払い、無限の引き出しへと手を伸ばす力になるのだとすれば、それもまた、慈悲のはたらきなのだと思います。