
山本由伸投手が、ワールドシリーズ最終戦を戦い終えたインタビューで、「まるで野球少年に戻ったような気持ちだ」と語っていたのが印象に残っています。
それは、ただ目の前のプレーに夢中になっていた、ということなのかもしれません。
そのとき、ずいぶん前に読んだ玄侑宗久のこんな話を思い出しました。
セメントを作るために砂利を一輪車で運んでいる人に、「代わってあげよう」と言えば、その人は喜んで受け入れるかもしれない。
しかし、砂場で一心に砂遊びに興じている子どもに、「大変だろうから代わってあげよう」と言っても、きっと無視されるだけだろう。
会社の仕事というものは、前者の作業に似ている。入れ替えがきくことが組織の層の厚みをつくり、どの社員も「かけがえのない」存在ではない。
けれど、それだけにとどまるなら、あまりに寂しい。
私たちは入れ替え可能な役割を引き受けながらも、「遊び」の心によってその仕事を生かさなければならない。
玄侑さんは、砂場で遊ぶような気持ちで物事に当たることを「遊戯三昧」と呼びます。
「自分が何かをする」のではなく、「自分という器のなかで何かが起こる」――それが三昧の世界です。
ピンチのなかでも淡々と投球を続ける山本投手の姿には、その三昧の境地が感じられました。
三昧に入った山本由伸には、もはや「代わり」は必要ありません。
長く語り継がれるであろう最終戦のピッチングのなかに、私は「三昧」の姿を静かに見た思いがします。





