
詩人の茨木のり子が、哲学者・長谷川宏との対談『思索の淵にて』の中で、次の詩(長詩の一部)を紹介しています。今まで読んできた詩のなかで、一番好きな詩なのだそうです。
年をとる それは青春を
歳月のなかで組織することだ
(ポール・エリュアール/大岡信訳)
青春を「組織する」、組み立て直すという言葉から、織物のイメージが浮かぶと、茨木は語ります。青春の爆発や戸惑い、絶望などがないまぜになって、つかみようもないものを「縦糸」として結び直し、あれは一体何だったのだろうと思いながら、「横糸」を一日一日と織りなしていく。人生とは、そのようにして一枚のタペストリーを織り上げていくことなのかもしれない、と。
わたし自身を振り返ってみると、若いころの夢を断念していまの仕事に就いたときの、割り切れない思いが真っ先に思い出されます。そのとき、ふたつの糸を無理やり撚り合わせて一本にしたため、縦糸はどこかいびつに膨らんでしまいました。その後も、仕事のことでそのいびつさは少しずつ増していったように思います。 三十年ほど前に妻という縦糸が加わり、二十三年前には二本の美しい糸が織り込まれました。この三本の糸のおかげで、わたしの織物は彩りを得ることができました。
そんな縦糸を織物として「組織」していく横糸は、茨木の言葉を借りれば、「あれは何だったのだろう」という思いなのだと思います。横糸のはたらきとは、ひとつひとつの思いを「鎮める」ことではないでしょうか。そうすることで、撚り糸のデコボコも、新しく加わった糸たちと調和していくのだと思います。
青春の縦糸は、「鎮める横糸」によってひとつひとつ丁寧に括られて、やがてタペストリーの端を飾るフリンジになってゆきます。それは、人生の終わりにそよぐ、自由な風のかたちのように思えます。
茨木のり子は、こんなふうにも書いています。
どんな仕事であれ、若い日の憶いが高齢になるまでひとすじ、つながっている人のほうが、どちらかと言えば好ましい。 (前掲書)
人生の終わりにタペストリーが織り上がり、ひとすじの縦糸が風にひらめくフリンジのように自由であるならば、その人は、美しい人生を全うしたと言えるのではないでしょうか。