
茨木のり子の詩の中で、最も好きなもののひとつが「みずうみ」です。
ランドセルを背負った幼い二人の娘が「だいたいお母さんてものはさ、しいん としたとこがなくちゃいけないんだ」と文句を言うところから、この詩は始まります。
きっと登校前の娘たちに、母親がうるさく指図していたところに、思わず発した娘たちの言葉だったのでしょう。ひとり残された母親は、「名台詞を聴くものかな」とひとりごち、湖に降りてゆくように思いを馳せます。かつて会った人たちの面影を探りながら。
詩は次のように続きます。
お母さんだけとはかぎらない
人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で
それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから
発する霧だ
自分にとっての「みずうみ」とは、あるいは尊敬するひとの魅力のような「湖の霧」とはなんだろう、そう考えさせる美しい詩です。
こんな昔話があります。
田沢湖のほとりにある祠に翁の面が収められていました。月が出て霧がこめるころ、魍魎たちが現れて、翁の面とともに宙に浮いて舞い始めるのです。この怪現象を恐れた村人たちは、大きな石に穴を穿ち、ここに面を閉じ込めて石蓋をしました。そうすると、魍魎は現れなくなったという話です。
茨木のり子は、この昔話を踏まえていたのではないのでしょうが、詩の中の「他人の降りてゆけない魔の湖」というくだりに響き合うように感じました。
昔話の中の「魍魎」は人の哀しみ、「面」はその哀しみを誘う誰かの面影、ではないでしょうか。そう考えてくると、人間の魅力に喩えられる「湖の霧」とは、哀しみに引き寄せられると同時に、その哀しみを封印しようとするような、引き裂かれる思いではないかと思います。
誰の心にもある「魔の湖」それを覆い隠すような深い霧――「しいんと静かな湖」という言葉は、そう考えてみることで、深みを帯びるように思います。